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養うこと。


昨日はワークショップの日だった。

ストレッチやって、筋トレやって、エチュードやって、テキスト。
なかでもエチュードに比重をおいたトレーニングにした。

エチュードは、座組の数だけ色々なやり方があるのだろうけど、ハンバーグのは多分、最もオーソドックスでタイプで、3つの決め事を作る。






場所・その場所にいる動機・人物の関係性。


例えば・・・
場所=交番
その場所にいる動機=仕事(任務)
人物の関係性=巡査係員と巡査部長(人物が二人の場合)


この3つを基盤に即興芝居をしてもらう。
即興芝居なので台本はない。
筋書きも台詞も、その時、その瞬間に生まれてくる。
上記の例えは、人物の関係性は知り合いな訳だ。
初対面という設定でも良い。


例えばの例えば・・・
場所=交番
その場所にいる動機=仕事(任務)
人物の関係性=巡査係員と道を尋ねに来た一般人


知り合いパターンと、初対面パターンでは展開が随分と変わってくる。
俺が面白いなっと思うのは、初対面パターン。

知り合い同士で話すのは会話。
知らない同士で話すのは対話。

この対話が面白い。
話してゆく途中で段々とお互いが、どういう人間なのかが見えてくるからだ。

時として、エチュードがまったく面白くならない事もある。理由として、3つの決め事から脱線してしまうこと、やる人間の予めこうしてやろうというプランが最初からあること、その虚構の世界で客観的に存在してしまうこと、など他にも色々ある。

エチュードの醍醐味は台詞がないから予定調和にならず新鮮な言葉が生まれる。相手が何を喋るのか聞かないと、感じないと、考えないと、その相手の喋った内容に対するアンサーが出せない訳だ。それは言葉だけではなく動きも感情も同じ。

その新鮮を実感体感するためにエチュードをやる。

台本を読むと、その世界を記憶してしまうので、動くことも喋ることも感じることも、繰り返せば繰り返すほど新鮮さがなくなってゆく。何故ならば相手が何を喋るのか、自分は何を喋らなきゃいけないのか、すでに決まっているからだ。

台詞を聞いていると話しの辻褄は合っているけど、何だか気持ち悪い。言っている内容は理解出来るけど、そう言っているようには聞こえない。もっと言えば、誰に話してるの?みたく感じる時もある。そういう時は大抵が相手の感情を受け入れずに、自分の感情だけで勝手に芝居が進んでいる。感情と感情が向き合っていない。コミュニケーションが成立していない。

それでも台詞さへ全部覚えれば芝居は終わりまで進む。
それが芝居の怖いところだ。

こう言いたい!とか、こうしたい!とか、あるだろうけど、それは人物思考ではなく、本人思考な訳で、戯曲の中では本人が書かれているのではなく、すべてが他人な訳だ。

だから制限だらけ。
然し、表現者とは、その制限を稽古というプロセスで、苦しみまくって、考えまくって、感じまくって、やっと気付いてくる事があって、制限の枠の中を無制限で生きなければならない。それが少しでも見えてきたら、やっと楽しくなる訳だ。そうなった時に、もう制限など感じないで普段生きているように舞台の上でも生きられる。

そこを追求するために色々とやっているのがワークショップトレーニングの意味であり意義でもあり。

エチュードは戯曲ほど制限がない。
そして、好きなことが出来るから楽しくなりやすい。
お遊びみたいな感じでもあるから、ギャラリーを笑わせようとしたりもする。
でも今回の比重をおいているエチュードは、そういう事ではない。


昨日の設定。

場所=つり橋。しかも高くて長い。
その場所にいる動機=自殺志願(二人とも同じ動機)
人物の関係性=初対面。

面白い事をやってほしいのではなく、そこに何をしにきた?何でそうしようとしたのか?そしてどうするのか?その追求を要求した。

本当にそうしたいという気持ちをどこまで作れるのか、その世界で虚構を真実だと信じて存在出来るのか、目の前にいる人間の気持ちを探すことにも繋がってきて、そこから生まれてくる言葉や感覚、感情と心情もある。

俺は最近、感性で芝居をしてくれと言う事が多い。
感性って抽象的な言葉だから、ニュアンス的なことはわかっていても、具体的に考えたら何だろう?
俺は気付くことだと思う。いや、他にもあるだろうけど、気付くこと。

気を使う事ではなく、気が付くだ。

こうしようとか、準備していたら、気付く必要なんてないのかもしれない。
だから気付けない。もちろん、段取りも計算も踏まえた上で芝居を進行させる時もある。

然し、気付くを養いたいからこそ、エチュードという即興芝居と実際にテキストを使う芝居の隔たりを感じてほしいし、考えてほしい。

違うって事は、わかる。だいたいが、そこでストップ。
そこでストップすれば、それ以上先には進まないからこそ、隔たりを感じたら、その隔たりを具体的にしてゆく。何が違うのか、言葉だけではなく感覚で認識してゆく。

それが出来たとしても、戯曲を読むのは難しい。
簡単に出来たら面白くない。
簡単に出来ても、更に次へ進む方法として考えれば、終わりがない。

ようは、探求追求なのだ。



エチュードをやった後に、少しだけテキストを読んでもらった。まだ誰も、具体的に出来ていないのを感じる。っが、それで良い。出来るようにするのが、トレーニングなのだから。そういう方法を学ぶことで、公演に向けての稽古も、より具体的に出来るだろうと蓋し言える。


TOKYOハンバーグ公式サイト

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